たのしくおんがく。

音楽のレッスン話などを綴っています。

コロナ禍になっても忘れずにいたこと

去年の1月に新型コロナウイルスというやつが発見され、日本にも、そして世界中でも流行し、この国では有名な人が死んだり、緊急事態宣言とやらでスーパーやコンビニしか営業できなくなったり、いろんなことが起きました。

 

私も決まっていた舞台やレッスンは全部中止になりました。

 

あまりの閉塞感に、気持ちを押しつぶされそうになったことは何度もありました。

 

 

ただその中でも、私が一番心がけていたことがありました。

忘れずにいたことがありました。

 

 

 

「笑顔で、楽しく、一生懸命音楽をやってることをお客様に伝えること」

 

 

 

技術もない、表現力も拙い、そんな私でも継続して見てくれて良い評価をくださる方が一人でもいるならば、その方だけでもいい、私は懸命に音楽を奏でる、と。

 

それだけです。

とにかくお客様に楽しんでもらいたい。

その思いで、自分はやっていってます。 

 

 

 

どうぞ2021年が良い年でありますように。

第九の合唱の思い出

大学1年のとき、ベートーベンの交響曲「第九」の最後の合唱のメンバーとして参加したことがあります。

 

 

一緒に参加したメンバーのなかには私のような音楽を専攻する学生ばかりではなく、社会人や、いろんな職業の人たちが、いました。

 

何回目かの練習の休憩時間に、息つく暇もなく楽譜と向かい合っていたオッさんとふと目が合いました。

「いやぁ、譜面が読めなくてねぇ…この音はどう歌えばいいの?」

それがオッさんとの出会いでした。

 

練習室のピアノを借りて、弾きながら歌ってみせたら、「ああ、よく分かったよ!ありがとう」と感謝され、「今夜は僕の奢りだから好きなもん食べな」と食事を御馳走になりました。

 

食事をしながら聞いた話によると、

オッさんは音楽が大好きで、特に歌が好きでその道を志していたにもかかわらず、家業を継ぐ為に道を断念し、地元の合唱団に入って、いつかは第九の合唱団員として舞台に立ち、100回第九を歌うのが夢だと語りました。

「君は幸せだね。親御さんが音楽大学に行くのにお金を出してくれて、きっとプロになるんだろう?頑張って勉強しなよ」と励ましてくれました。

 

 

本番のときオッさんは、清々しい顔で歌いきり、指揮者と私とスリーショットを撮って、御満悦でグイグイ熱燗を干し、「いい夜だぁ〜、今夜は最高だぁ〜」と店中に響く声で叫んでいました(笑)。

 

 

オッさんは年明けの桜が満開のころ亡くなりました。

 

オッさんの奥様によれば、実は彼は末期の癌で、第九の練習は病院から通っていたとのことでした。

「100回第九を歌うのが夢だったとか言ってましたよ」と告げると、「あの人なりの強がりだったんですよ」と泣き笑いし、「eikoさんにはプロにならなくても、音楽を極めて生きていってほしいと申しておりました」と仰ってくださいました。

 

家に着くまで涙が止まりませんでした。

 

 

オッさん、アッチでも第九歌ってるか?

直した音程とドイツ語、間違えるなよ。

 

 

だから第九は嫌いなんですよ、オッさんの笑顔とあの声を思い出して、涙が出てくるもんで。

 

年の瀬です。

 

今年ほど生きていること、歌えること、弾けることの幸せを実感した年はありませんでした。

 

今年ほど日常の愛おしさを感じた年はありませんでした。

 

今年ほど人の温かみを感じた年はありませんでした。

 

 

たくさんの人に私の音楽を聴いていただけました、たくさんの人に愛を貰いました。

 

素敵なクリスマスと、素敵な新年を。

もったいなくなんかない

留学から帰国して、求職活動しながらアルバイトをしていたことがありました。

 

閉店後バイト仲間と飲みに行くか、ってことになって、キリンシティでビール飲みながら話してたんですが、バイトリーダーが私の出身校を知って、ものすごくびっくりされて、こう言われました。

 

「音大出で音楽の仕事をしないの⁉︎もったいなくない?」

 

 

私はその言葉に心底むかついたんですけど、いろんな仕事先で割と言われることなので、「またか」という思いで、ビールの残りを干しました。

 

のだめカンタービレの見過ぎです(笑)。

 

基本的には、音楽大学を卒業しても一般企業に就職するといった道を選ぶ卒業生のほうが圧倒的に多いです。

 

のだめカンタービレのように指揮者コンクールで優勝したりとかパリ音楽院に留学したりとかそんな華々しい前途など、

「ほとんどございませんっ!」

(のだめの家庭も海苔農家なのにボンと娘を留学させるだけの資金はどこから出したのか、気になります)

 

ましてや音楽教師など、生活していけるほど安定した収入があるのはほんの一握り。

音楽大学の非常勤講師など「バイトだよ、バイト。しかも交通費ナシの歩合給」(大学の同期の一言)。

 

 

音楽大学のパンフレットは所謂「見合いの身上書」みたいなものですから、優等生(たいてい学年トップ1〜3番)の顔写真入り「学生生活について」だの、進路先には「〇〇交響楽団・▲▲ブラスシンフォニー・劇団☆☆・♡♡歌劇団…」

あのね。それ、全員じゃないからね。

眉に唾つけて読んでね。特に有名そうな音大はね。

 

と、社会の荒波にウン十年揉まれた「元・音大生」は思うのでありました。

 

 

私の人生がもったいないかって?

その価値観は人それぞれですが、前述したバイトリーダーの一言は、本音を言うならば

「余計なお世話よ!」

 

音大を出ずにプロのミュージシャンである人の存在もたくさん知っていますし、順風満帆に見えた首席出の同期がスランプになって音楽やめた例も見てますし、私はあまり大学で親しくしてた友達っていなかったから(他の大学のサークルにいたから)、同期60人それぞれがどんな人生送ってるかも知らないし興味もないんですが(エゴサするのもめんどくさい)、その人が今幸せなら音楽やってようがなかろうが関係ないやん、と思ってます。

 

私自身のことを申しますと、学業を終えてからほぼすぐに一般企業に勤めました。

29歳で留学するための資金を貯めたかったのと学生支援機構の奨学金を返済するためです。

 

留学から帰国して半年ほどアルバイトをしましたが、その過程で現在の企業に再就職し、今に至っています。

 

 

音楽の仕事をしたり、教えたこともありますが、愛が強すぎて客観的に音楽というものを見れず、自分は自分磨きのツールとして音楽があればいいのかなと思ってます。

 

そんな人間もいるわけで、もったいなくない人生を送っております。

なにかを残せたのか

講師職を辞することになりました。

 

人に教えることがこんなに難しかったのか、と我が身の未熟さを痛感しています。

 

中途半端に終わらせてしまったことに関する私の浅はかさをも感じています。

 

 

私の母親は教師で、算数すら怪しかった生徒さんたちを見事に志望校に合格させてきたのですが、教育にかける愛情は肉親とは思えないほどで、尊敬するばかりです。

 

音楽大学に入学して、教職を取ろうかと相談したら「おまえには向かない」の一言でバッサリ切り捨てられたので(反対を押し切って教職の授業は取りましたがどうもつまらなくて寝てばかりいた)、どうも教職というものは私には向いていなかったようでした。

 

その頃子ども嫌いだったし(関係ないか…)。

 

 

こんなヤクザな講師でも付いてきてくれた生徒さんがいて、一緒に勉強してくれたことには感謝しかありません。

辞した理由はただ一つ、自分の未熟さゆえです。

 

こんな私でもなにかを残せたのかと考えることがふとあります。

 

 

今後は自らの演奏を通して、聴く人が「なにか」を感じてもらえるように、愚直ですけど、努力しかないのかなと思っています。

講評

今年くらいから、いろいろな人に自分の演奏を聴いてもらい、いろいろなご意見をいただくことが多くなってきました。

 

YouTubeにあげた動画にご意見を頂戴することもあります。

 

概ね、嬉しいお声をいただきますが、なかには建設的な意見なども多く(最近は悪いことを言う方はいないです)、勉強になります。

 

 

21歳で演奏活動で初めてお金をいただいてから長い年月が経ちました。

私が若い頃は「酷評」されることもあり、よからぬ噂を立てられたりして、傷付いたこともあります。

年齢を経て強く…なれればいいのでしょうが、やはり一生懸命作ったものを貶されると悲しい。

それは、アーティスト活動に携わる人間たちが(プロアマ問わず)必ず持っている感情ではないかと思います。

 

芸術、芸能には数学的に割り切れるものなどなく、寧ろ「みんな違って、みんないい」ですから、その人の表現するものについて十人十色の意見があるのは織り込み済みです。

最近では「私の演奏が嫌いなら、聞かなければいいでしょう」とずうずうしくも開き直れる強さも出てきました(笑)。

大人になったのか、歳を取ったのか(笑)。

 

 

リスボンで出会ったギタリストが言っていたんですが、「悪口ばっかり言う奴は臆病で孤独で哀れな人間なんだから気にすることはない」。

「悪く言われるだろうと恐れるより、音楽が好きだ!という気持ちを出すほうが良い演奏ができる」。

彼には滞在中とても世話になり、落ち込んだ時も励ましてくれました。懐かしいです。

 

 

もしかすると若い頃私を悪く言った人たちは自分に自信が無かったのかもしれない。

そう思って心が軽くなりました。

 

 

悪いことを言ったりしたりすると必ずそれは自分に返ってくると、幼少時代祖母から教わってから、自分は悪口が言えないです(つい仲間うちでお酒を飲んで口が滑ることもありますが)。

どんな人のどんな演奏であれ、なにか自分と違うところ、盗めるもの、マネ出来そうな箇所、そういうものを探して見ています。

 

いずれ私も後進の方々になにか意見を求められたときは、出来る限り温かく建設的な意見を言いたいなぁ、と思います。

 

 

 

 

 

自分を誇れるように

芸能ネタなのですが思うことがありますので書きます。

 

私はカラオケに行くと必ず歌ってしまうくらい華原朋美さんの「I'm proud」が好きなんですが、この曲、お付き合いしていた小室哲哉さんが彼女の為に書いた曲と知って(もともと知ってましたが)せつなくなりました。

 

華原さんは(週刊誌情報だけの話では)精神安定剤睡眠導入剤に依存していたりしているそうです。

開設したYouTubeチャンネルでも危うげな行動が多く、彼女の歌声に魅了されたことがある私として、少し心配しました。

 

 

華原さんの原点は「I'm proud」にあると思います。

「I'm proud いつからか自分を誇れるようになってきたのはきっと あなたに会えた夜から」

という歌詞があります。

この曲を彼女は、小室哲哉さんといた時はまさに実感を持って歌ったのでしょう。

 

しかし彼とは別れ、精神的に不安定になり、不遇の時を経て再起した。

そのときに歌われたレ・ミゼラブルの「夢やぶれて」という曲は、大人の表現力のある、素敵な歌声でした。私はどちらかというとこちらの方が好きだったりします。

 

 

私も似たような経験をしてきたので、華原さんの気持ちを実感を込めて言えると思います。

音大の声楽科時代に将来を誓い合った同学年の恋人がいました。

卒業したら結婚する予定でした。

ところが大学3年のときに別れを切り出され、ショックで自殺未遂をはかり、その後も何度も見捨てて欲しくないと滑稽な行動を繰り返しました。

結局は破局し、私は転科し、オペラ歌手の夢もやぶれて精神科病棟に入院しました。

 

時が経ち、私は少しずつ今までしてきた勉強や活動が認められ、充実した生活を送ることができています。

あの時の恋人が今何をしているか、うっすらとは知っていますが、自分の中ではセピア色になった写真のように、昔の思い出として「そんな人もいたっけね」と思えるようになってきました。

 

 

自分を誇れるようになるには、ありのままの自分を抱きしめてあげなければ永遠に誇れるようにはならないのかもしれません。

誰かが何とかしてくれて、「幸せにしてあげるよ」ではなくて、自分の足で立って歩くこと。自分の欠点をも受け入れてあげること。

幸せって、人にどうにかしてもらうんじゃなくて、自分で掴み取るものだと、私は思うから。

 

華原さんにとっての「あなたに会えた夜」が、「自分の弱いところをよしよし、って自分自身で抱きしめてあげることのできた夜」である日が来ることを、願ってやみません。